法律の世界では、民法でも刑法でも、時効という制度があります。その理由のなかには「年数がたつと、債権・債務関係がよく分からなくなる」「証拠がよく分からなくなる」というような技術的なこともありますが、もう一つには、民事であろうと刑事であろうと、「人の記憶が薄れていく」「怒りが薄れていく」ということもあります。

たとえば、民事で、「貸したお金を返せ」という争いがある場合に、年数がたつと、ほんとうに貸したかどうか、債権・債務関係が分からなくなってきますし、人の記憶も薄れてきます。「10年も20年もたってから、返してくれと言うようなお金は、そもそも、返してもらっても返してもらわなくても、どちらでもいいようなお金だったのではないか」というような見方もあります。

あるいは、殺人事件でも、時間がたつと、「実は、こんなことがあった」などと言っても、証拠もないし、当時の関係者もいないし、事実関係が分からなくなります。そして、憎しみや恐怖などの感情も薄れてきます。

こういうことが時効制度の背景にはあるのです。

法律にも、そういうものがあるならば、人間の心、自分自身の心においても、一定の時効があってもよいと思います。

自分を許せないために、10年も20年も苦しんでいる人がたくさんいます。「人間関係で失敗した」「会社で失敗した」「事業で失敗した」「異性関係で失敗した」など、過去の失敗の経験はいろいろあるでしょう。大勢の人が、さまざまな苦しみのなかで生きているわけであり、この世には、人間の数だけの苦しみと失敗、挫折があります。

残念ながら、全員が成功することはできません。ある人にとっての成功は、ほかの人にとっての失敗であることも多いからです。

そのときに、いつまでも苦しみつづけるのは愚かだと思います。反省すべきことは反省し、今後はしないようにすることです。詫びるべきことは詫び、認めるべき間違いは認めることです。しかし、一定の期間を超えて長く苦しみつづけることは、愚の骨頂であると思ってください。

「この問題については、自分は充分に苦しんだ。もう3年もたったのだから、自分を許そう」という、自分の罪を許すことです。