社会人大学院に通いだして、早や10ヶ月が経った。
改めて感じたことがある。それは、勉強できる環境に身を置きながら、新しい世界が開けたからである。自分だけの小さい世界ではなく、広く社会科学の勉強ができることや、教授や新しい仲間と知り合いになれたことも、向上心を高めてくれる。何より勉強の仕方が深くなり、学問の面白さが見えてきた。
 また、これからの老後を今まで以上に考えるようになった。それは体力や知力とも関係するが、楽しい老後を過ごしたいと考えている。大学院は若い方々と接することもでき、私にとっては良い刺激を受ける。ゆっくりと大学院に通い、論文を完成させることだ。この方法なら、ボケ防止も兼ねて長く続けことができる。幸い、文章を書くことは嫌いではないので、大学院は私には向いている。もっとも、統計学や英語の勉強も出てくるが、一つひとつクリアしていけば良いと、前向きに考えている。
 話は変わるが、清水幾太郎著の「論文の書き方」という名著がある。その中で、本を読んで理解することは、単純に読むだけであって、自分を通して表現するという活動を伴わない。精神が受身の姿勢でいることができる。しかし、書くことを前提にして読む場合は、自分で表現し得るように理解しなければならない。童話のように易しい本でも、ひどく難しく感じる。読者が著者に近づくのである。
 500頁の書物を読んで、2,000字にまとめるには、相当な理解力と書く能力が問われる。「あんな大きな書物の内容を十枚で書くというのは無理です。枚数が自由なら立派に書けたのですが、」と、生徒が清水教授に苦情を言う。生徒からこういう苦情が出るたびに、清水先生は「狭い土俵があってこそ、相撲の技術というものは磨かれるのだ。」土俵が狭いから負けたので、土俵がもっと広ければ勝ったのだ、というのはナンセンスである。さすが、清水教授の名言である。誰もが尊敬する偉い先生の書物は一味も二味も違う。
 論文作成は、まさに清水先生のおっしゃる知的生産であり、ものすごく頭を使う、すばらしい知的作業である。私は67歳になって、これに挑戦しようとしている。自分の凡庸な脳みそがびっくりしているが、それでも挑戦し続ける。文章は捨てることによって磨かれる。もうこれ以上削るところがないところまでいかないと、500頁の書物を2,000字にまとめることが出来ない。文章は、削って、削って、削りまくらないと、良い論文に仕上がらない。
 あと、1年余りで修士論文を完成させなければならない。この作業は、得意先へのアウトプットにも役立つ。もちろん、経営事項審査(けいしん)に関係するテーマでもあるので、現実の仕事にも貢献する。テーマを自分の仕事に関係できるのも、社会人大学院の良いところである。