清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ)という言葉があります。

 器が大きく、善悪関係なく受け入れることのたとえとして使われます。正しいものや良いもの、綺麗なものだけを受け入れるのではなく、悪とされるものも公平に受け入れる、度量の大きさを表します。

 二十歳頃に「清濁併せ呑む」という言葉を知り、すごく感銘を受けたことを覚えています。このような人物には、なかなかなれなれませんが、私の好きな言葉の一つでもあります。「清濁併せ呑む」を噛みしめては、折々に自分の戒めにしてきました。

「他人の仕事に対してケチをつける人」「すぐに駄目だ」というタイプの人がいます。サラリーマン時代によく言われた私ですが、こういう方は往々にして大成していません。

 やはり、もうちょっと「受け止める力」とか、あるいは自分の失敗でもそれを甘んじて受ける「認める力」もあれば良いと思います。

 また、他人の失敗に対しても、「ああ、ここのところはこれで失敗したのか。だけど、ここのところの考え方はできていたね。ここをもうちょっと気をつけたら、これは仕上がったね」というような感じのところを、ちゃんと分析的に理解してやれるだけの力があれば良いと思います。

 あるいは、「自分がアドバイスしてやれば、こうならなかったかもしれないな」というような見方もあります。

 あまり他人に厳しすぎる人の場合は基本的に、長所を見るタイプの人ではないでしょうし、楽天主義者でもないと思いますが、人の上に立つ人は、本当は繊細に細かいところは見えていても、ある程度、清濁併せ呑んで腹のなかに納める方です。

 このように「清濁併せ呑む」を実践できる方は、器が大きく、頼れる上司でした。その上司は、その後、部長になられ、取締役専務になられ、何と三代目の社長に抜擢されました。先代、二代目の身内ではない方が、社長になりました。

 まさに、「清濁併せ呑む」を習慣的に実行されている方でした。久しぶりにその先輩とお会いし、楽しいひと時を過ごすことができました。今は会長として「清濁併せ呑む」の器が、二倍にも三倍にもなっていました。