昔、ギリシャにディオゲネスという人がいました。この人はいつも、汚い恰好をして樽のなかに住み、「樽のなかの哲人」と言われていたそうです。

 あるとき、その町にアレキサンダー-大王がやってきました。そして、アレキサンダー大王がディオゲネスに対して、「ディオゲネスよ、おまえの願うことを何でも聞きとどけるぞ」と言ったところ、ディオゲネスは「そこをどいてください。日が当たりません」とだけ答えたのだそうです。

 二千年以上ものあいだ、こうした話が伝わってきています。

 ディオゲネスにとっての幸せは、樽のなかで平安な日々を生きつつ、太陽の光を浴びていることであり、これだけで彼は心の平和を満喫していたのです。

 日の光さえ浴びていれば満足で、着る物も、お金も、地位も、名誉も、何もいらない。ただ樽のなかで考えているだけでよく、毎日、だれの指図も受けずに自由に生きている。そこへ、アレキサンダー大王だか何だか知らないが、偉いと称する人が来て、自分の目の前に立ったおかげで、日の光がささなくなった。

 そのため、ディオゲネスは、「どいてください」と言ったわけです。これには、さすがのアレキサンダー大王も返す言葉がありませんでした。

 アレキサンダー大王は「この世の中で自分の自由にならないものはない」と思っていました。確かに、「宮殿が欲しい」「お金が欲しい」「妻が欲しい」などという願いであれば、アレキサンダー大王の自由にならないものはありません。

 ところが、それほどの権力を持っている大王であっても、ディオゲネスにとっては、太陽を遮り、日陰をつくる障害物にしかすぎなかったわけです。

 ここに、心の王国に生きている者と、この世の栄光に生きている者との違いがあるということを、このエピソードは示しています。

 私はデッオゲネスの言葉に、自分の心の王国を徹底的に支配しえた人の姿を感じます。それは、まわりの状況やこの世的な物差しでもって心が動じない人の姿です。

 アレキサンダー大王が与えてくれるであろう権力や名誉、お金などを求めなくても、幸福でいられる人間の存在。そこには、「他人の意見や言葉によって、あるいは、他人がつくり出した環境によって、自分の幸福を支配されない」という姿勢があり、心の王国を支配しえた人の偉さがあると思うのです。

 苦悩の諸相を眺めてみて分かるのは、「自分の外にある物差しに、自分を合わせようとしている」「他人の言葉によって左右されない自分、それに迎合しないで生きる自分をつくれなくて、苦しんでいる」「いろいろな情報が目や耳から入ってきて、それで苦悩をつくっている」などというこです。

 結局、自と他の比較が苦悩を生んでいるのです。

 「自分の苦悩は、結局、自分の外にあるものを自分の内に持ってきて、自分を幸福にしようとしているために生じているのではないか」という観点から、苦悩を見直してみるべきなのです。

 「ほんとうは、自分の内にある心の王国を、完全に支配しえていないだけではないか。ディオゲネスの境地から見れば、自分はまだ、肩書、お金、異性などといったもの一つで心が動く、弱い人間ではないのか。苦悩の原因は、結局、自分の幸・不幸を、自分の外に求めようとしているところにあるのではないか」。

 こうしたことを考える必要があるのです。

(大川隆法著「不動心」76頁~80頁より)