「愚痴」という言葉は仏教からきています。仏の智恵に暗く、道理が通じない根本的無知を表しています。現在的には「言っても仕方ないことを嘆(なげ)くこと」の意味です。

「愚痴をこぼす」とか「くどくど愚痴を並べる」とか表現しますが、あまり良いものではありません。愚痴を言っても始まりません。

 誰でも、愚痴っぽい人とは何度も会いたくないでしょう。そういう人が、他の人に同情を乞うているのは分かりますし、気の毒であることも分かります。「愚痴を聞いてほしい」という気持ちも分かるのですが、何度も愚痴を聞かされると、聞かされるほうは、だんだん参ってきてしまいます。

 では、どうすれば、愚痴を言わないで済むようになるのでしょうか。冒頭で述べたように、現代的な意味も含めて、仏教的な意味合いを知ってください。愚痴を言うことは、仏教的には「心に曇りをつくること」を意味します。心に曇りをつくり、心のごみをばらまいていることになります。

 なぜ愚痴が出るのでしょうか。「もっと人からほめられたい」「称賛を得たい」「お金が欲しい」「地位が欲しい」「名誉が欲しい」など、いろいろなものについて、「欲しい、欲しい、欲しい」という気持ちはいっぱいあるのに、それが手に入らないから、愚痴が出ます。

 愚痴を言う人は、たいてい「人のせい」「環境のせい」にします。それが特徴です。

 自分のせいにして愚痴を言う人は、めったにいません。「自分のせいだ」と考える人は愚痴を言わないものです。

「人のせい」「環境のせい」にして、「愚痴をまき散らす」ということが普通です。欲求不満のような感じでしょうか。そういう人は数多くいるはずです。ただ、愚痴を言って何か得になることがあるならよいのですが、そんなことはありません。

 例えば、「家のなかにごみがたまると嫌だから」と言って、窓から外へごみを投げ捨てたら、「家のなかがきれいになった」といっても、町にとっては公害です。「自分だけよかれ」と思っても、結局、町全体が汚くなります。

 愚痴だって同じです。

「愚痴を全部捨てたから、きれいになった」と思って、嫌なものを目の前から片づけたつもりでも、だんだん周りが嫌な気持ちになってきます。

 このように、「愚痴というものは、自分自身の仏性を穢(けが)すと同時に、他の人をも穢すものである」ということを知ってください。

 愚痴が出そうになったときは、どうか、「愚痴は心に曇りをつくるのだ。ごみをばらまくことになるのだ」と思ってください。

 愚痴を言っていると、その愚痴の曇りによって、心に仏様の光が射さなくなります。その結果、自分自身が暗い心のままで生きていかなければならなくなります。

 やはり、「明るさ」や「さわやかさ」を忘れないで生きていきたいものです。