お釈迦様の説いた教えはたくさんありますが、その中心的な教えの一つに、「縁起(えんぎ)の理法」があります。縁起の法則とも言われます。

 この「縁起の法則」は、主として二つの点から理解されています。時間縁起と空間縁起です。まず、時間縁起のお話です。縁起の法則を時間的流れにおいて理解したときが、「原因・結果の法則」になります。

 人はそれぞれ、日々、自らの幸・不幸の原因となる行為をなしています。あるいは、そのような思いを持っています。そして、その日のうちか、近い将来か、遠い将来か、死してのちか、必ず結果が現れてきます。この原因・結果の法則、すなわち「時間縁起」が、縁起の法則の一つです。

 昔から、「まかぬ種は生えぬ」といいます。また、「まいた種は刈り取らねばならぬ」ともいいます。人が現在ただいま到達している心境も、人の置かれている環境も、必ず原因があります。

 しかし、「必ずしも善因善果・悪因悪果ではないのではないか。『よい原因行為をなした者には、よい結果が現われ、悪い原因行為をなした者には、悪い結果が現われて当然である』と思うけれども、現実の世界を見ると、悪人であるにもかかわらず栄えている人もいるではないか」。このように思うかもしれません。

 よい原因をつくったにもかかわらず、悪い結果が出ているように見えたり、悪い原因をつくったにもかかわらず、よい結果が現われているように見えたりすることを「異塾(いじゅく)」といい、その結果を「異塾果(いじゅくか)」といいます。世の中の人には、それはまことに奇怪(きかい)なことのように思えるかもしれません。

 しかし、よくよく観察していただきたいのです。この世的には成功しているように見える人であっても、その成功の原動力がその人の持つ欲望である場合、その人は欲望の炎をさらに燃え立たせて、大きな欲望へと変えていきます。傍目(はため)には成功しているように見えても、よくよく目を凝らしてみると、その人は燃えています。眼も、鼻も、口も、体も、心も、炎に包まれ、燃えています。煩悩(ぼんのう)のなかに、猜疑心(さいぎしん)や嫉妬心(しっとしん)、恐怖心のなかに生きています。

 したがって、結果を外面的な成功だけに求めてはいけません。外面的な成功だけを求めた人は、その姿をよくよく見るならば、苦しんでいるはずです。

 一方、清く生きたにもかかわらず、この世敵には恵まれない最期(さいご)を迎えた人もいることでしょう。しかし、この世において努力したことは、それが成就(じょうじゅ)しなくとも、その人の魂の糧として確実に残っていきます。

 そうです。「この世を去った世界が厳然(げんぜん)としてある」ということが、仏様の、神様の、公平な世界があるということの証明になります。

 仏神の心、その教えに則って生きた人が、死後に苦しみを得ることはありません。また、仏神の教えに反した人が、死後、安らぎの世界に入ることもありません。正しい心を持ち、正しく生きた人には、正しい結果が必ず現われてきます。それが仏様が創った世界です。それは単純明快な世界です。報いられないということは、まったくありえない世界です。その世界を信じるべきだと私は思います。

 この世においては、原因と結果が必ずしも整合していないように見えます。しかし、そうした論理的矛盾があるからこそ、「世界はこの世だけではない」ということが明確に分かります。この世以外の世界があってはじめて、論理が完結します。

 これが原因・結果の法則、時間縁起といわれるものです。

 もう一つには、「空間縁起(くうかんえんぎ)」があります。

 人間はひとりだけで存在するのではありません。家族、友人、あるいは、共同体の人びと、会社の人びと、世界の人びとなど、それぞれの人の営みが互いに影響し合っています。それが、経済、政治、文化、教育などの持つ意味でもあろうと思います。

 人びとは互いに影響し合って生きています。日本人の生活とアメリカ人の生活とは、貿易を媒介として影響し合っています。また、自分が勤めている会社と他の会社とは、経済行為を通じて互いに関係し合っています。同じように、いろいろな人間の営みが相互に影響し合って、すべてが成立しています。これが空間縁起です。

 人間は互いに相依って生きている存在であり、「互いに支え合って生きている」ということが人生の本質の一つです。

 人生は、原因・結果の法則(時間縁起)と、「互いに支え合って生きている」という空間縁起によって成り立っています。お釈迦様の大切な教えです。人生は、この二つを理解する「ところからスタートします。