会社経営や人生に勝利するための方法論の一つとして、「意表をつく攻め方」というものがあります。誰も気がついていないところから一気に攻めていって、先発の企業を追い抜くという天才方の経営者もいらっしゃいます。

 今回は「意表をつく攻め方」で有名な源義経の例にして、お話を進めていきます。子どもの頃に「源義経」の本を読みました。

 源氏と平氏の戦い、いわゆる源平の戦いでも、平氏が日本全国を制覇して、源氏はほとんど滅びる寸前まで行っていたのに、軍事的天才の源義経が出て、それを引っくり返したのです。彼は軍事的な頭脳においては天才でしょう。

 例えば、一ノ谷の戦いがあります。一ノ谷というのは、現在の神戸の須磨区で、山が海に迫っている所です。平家はその山の下に陣を敷いていました。かなりの大軍だったので、それに対して、いまの大阪方面から、小人数の軍勢でまともに攻めていったら、当然、、負けてしまいます。

 そこで、義経が考えた奇襲戦法が、有名な「鵯越(ひよどりごえ)のさか落とし」です。背後の山の上から下りていったのです。その斜面は傾斜が非常にきついので、そこからはとても攻めてこられないだろうと平家は安心していました。そこをいきなり上からねらわれたわけです。

 義経の軍は、数十騎ぐらいしかいなかったらしいのですが、馬で斜面を駆け下りていって、敵の本拠の背後を襲いました。そして、敵陣のなかへ入ったら、本丸に火をつけて燃やしてしまいました。いくら大きな軍勢でも、本丸が燃え上がると、驚いて散り散りになってしまいます。

 そのあいだに、友軍の小さな軍隊が正規の方向から攻めてきたので、挟み撃ちになり、平家軍は簡単に敗れてしまったのです。

 義経はこういう戦法で平家を破っています。これが一ノ谷の合戦です。

 これは、意表をついた奇襲戦法でもあり、ある意味で迂回戦法でもあります。まっすぐ直進して戦わずに、後ろの山からぐるっと回ることで、敵の意表をついて破っています。

 義経は屋島の合戦でも奇襲戦法を使っています。

 一ノ谷で敗れた平家の主力軍は、髙松の屋島にいました。当時、船の数は平家のほうが多く、制海権は平家側にあったので、まともに軍船で戦っても勝ち目はありませんでした。

 そこで、義経は、嵐の夜に少数の精鋭を率いて、香川県ではなく徳島県南部の勝浦のほうに船を着けました。嵐の海であれば、相手に制海権があっても、警戒活動ができないので、突破することができます。

 そして、徳島のほうから陸地伝いに屋島を攻めたのです。海から来ると思っていたところを、いきなり南から攻めていったわけです。地元の一部の豪族等も手なずけながら攻めているのですが、船で海を渡ったのはごく少数です。

「背後からいきなり襲う」という戦法を、義経は二回使っています。いずれも敵の意表をつく戦い方です。

 このように、義経が急所の部分で勝ったために、平家軍は総崩れになりました。屋島の戦いで平宗盛らが敗走して、最後は壇ノ浦の戦いになっています。戦における要所要所での義経の天才性は、すごいものがあります。

 こういう頭脳を持っている人は、現代で言えば起業家でしょう。一代で大企業をつくるような人が、だいたいこういう頭脳を持っているタイプの人です。「まだ誰も気がついていないところから一気に攻めていって、先発の企業を追い抜き、ほかの企業がミートしてくる前に押さえてしまう」という勝ち方です。

 しかし、「意表をつく攻め方」も会社経営に必要な時もありますが、そう何度もあり得るものではありません。ある程度の成功を築き、ある程度の実績をあげた場合に、次に心しなければいけないことは、「勝利は長く続かないことが多い」ということです。一時的な勝利というのは、個人においても組織においてもありえますが、ある人がやって成功したことは、当然ほかの人もまねするので、そのときに、自分にとって有利であった条件が、そうでなくなることもあるのです。

 追い風が吹いて、たまたまその業種が当たることもありますが、やがて追い風がやんで、斜陽化することもあります。ライバルが強くなりすぎることもあります。そのように、いろいろなことがあって、だめになる場合があるのです。

 したがって、一定の勝利を収めたときには、次に、勝ちつづけるための方法を考えなければいけません。

 常に勝ちつづけるシステムの構築というものは、個人においても組織においても必要なことです。たまたま成功したとしても、その成功は長く続かないのが普通です。諸行無常なのです。常に勝ちつづけるためには、それなりの備えが必要であり、勝ちつづけるための方法を考えなければいけません。