繁栄というものは、単に自分的な繁栄というか、自己主義的な繁栄ではいけないのであって、やはり、神の目から見て、「神の栄光を地上に降ろす」という意味での繁栄でなければなりません。これが、マックス・ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の繁栄の仕方です。
つまり、神の目を意識して、「それが正しいかどうか」という視点が入らなければいけないわけです。
しかし、近年、「金融工学で、ぼろ儲けができるというか、「操作だけで、ぼろ儲けができる」というようなかたちがつくられてきて、「神の栄光をこの世に現す」「神の恩恵が自分の身に及んで、リッチになる」という考え方とは違うものが出てきたのではないでしょうか。
チャンスの平等を与え、規制を撤廃し、政府による抑圧の部分を取って自由にしていくと、結果的に格差は開いていきます。格差は開いていきますが、それに対して、大きな利益をあげた者は、騎士道精神的な考え方でもって、奉仕していくことも大事でしょう。
繁栄が促進される方向で、いろいろなものがつくられるのはよいのですが、そこに、宗教的な精神が何か、乗せられなければいけないということでしょう。
宗教的精神がなく、無神論・唯物論、あるいは唯金論とも言うべき、「お金だけが人生だ」というような考え方になってきたら、やはり、そこに問題は起きてくると考えてよいのではないでしょうか。