松下幸之助さんの書籍に「人を活かす経営(PHP研究所)」があります。

 その中に、「熱意が人を動かす」というタイトルで、松下さんが五代商会という自転車店に奉公していた頃のお話です。

 当時は、子どもだから、店としてもあまり大切な仕事をさせてくれなかったようです。例えば、自転車の販売です。松下さんが満年齢13歳の時です。ところが、松下さんは子ども心に、自転車を販売するという仕事に興味をもっていました。何といっても自転車店であるから、自転車の販売が一番大事な仕事になります。その仕事を何とか自分の手でやり遂げてみたいと考えていました。

 当時の世の中では、自転車それ自体が珍しい時代であり、その貴重さは、現代の自動車かそれ以上の値打ちがあったようです。だから、その大事な自転車の販売は、なかなか小僧には任せることができなかったようです。当然と言えば当然でしょう。

 それだけにより一層、何とかして一台でもいいから自分で自転車の販売をやってみたいな、という気持ちが強くあったようです。

 すると、ある日、偶然にそのチャンスが巡ってきました。得意先から「自転車を見せてほしい」という依頼があったのに、見せに行く役割の番頭さんが留守です。得意先さんは急いでいます。さてどうするか。ご主人は、松下さんの顔を見て言いました。

「お前がもっていきなさい」

 これはまさにチャンス到来です。松下さんは張り切って自転車をもっていきました。

「よし、この自転車を何としても売り込んでやろう。買っていただこう」と勇んで得意先にお伺いしました。そして、得意先のご主人に、その自転車の性能や特徴などを、知っている限り一生懸命に説明されたそうです。「このようによいものですから、ぜひお買い上げください」。

 松下さんが一生懸命に説明するのを、笑顔で聞いていたご主人は、手をのばして頭をなでてくれました。そして「よしよし、お前はなかなか熱心な、かわいい子だ。買ってやろう。買ってやるから一割引きにしておきなさい」と言われた。

 長い間の夢がかない、松下さんの売り込みが成功しました。しかも初めての売り込みで、その販売に成功しました。「買ってやろう」とたしかに言われた。この嬉しさは、体験してみないとわかりません。ゾクゾクするほど嬉しい。もう有頂天でした。

「ありがとうございます。店に帰って主人にそう言います」

 松下さんはさっそく店へとんで帰って報告しました。

「あの自転車は売れました。一割引きで買ってくれることになりました」

 ご主人は笑顔でほめてくれるかと思ったけれども、全く違いました。

「一割引きとはどういうことだ。初めから一割も引いたのではどうにもならない。もう一ぺん先方へ行って、五分だけ引きますと言ってこい」

 売れた売れたと喜んでいるのに、このような事を主人から言われて、松下さんは、急にしょんぼりし悲しくなったそうです。これまで、お店が自転車を一割引きで売っていたことをよく知っていました。何度も一割引きで売っているのです。

 ご主人の言われることは誠にもっともであるが、松下さんには、それが出来ませんでした。ご主人に対して、「五分引きなどと言わずに、一割負けてあげてください」と訴えました。訴えるとともに、涙が出てきて、何ともいえない気分になって、シクシクと泣いてしまったそうです。情けないやら、悲しいやら、辛いやらで、涙があとからあとから溢れ出したそうです。松下さんはただ泣き続けていました。

 そのうちに、先方の番頭さんがしびれを切らせてやってきました。

「一割引きで買うと言ったのですが、どうなりました、負けてもらえないのですか」

ご主人は答えました。

「いやそれなんですが、この子は帰ってきて、一割負けてあげてくれ、と言ってこのように泣いているのです。今もどちらの店員かわからないではないか、と言ったいたところです」

 これを聞いて帰った番頭さんから報告を受けた先方のご主人は、「それなら五分引きで買ってやろう」と言われました。それから、先方のご主人は、松下さんに「君が五代商会にいる間、自転車は五代商会から買うことにしよう」と言ってくださった。一割引きと言っていた値段を五分引きでよいとしてくれたのみならず、今後も買ってやろうと約束もしてくれたのです。

 これは、松下さんが初めて自分で商売をし、販売に成功した経験でした。しかも、大成功といってよいような結果がもたらされたのです。

 この結果は、一言でいえば、運がよかったからであるが、販売それ自体だけをとりだして考えてみると、これはやはり、熱心な説明なり態度が先方のご主人を動かしたのではなかかと思いますと、松下さんは書いておられます。

 最後に松下さんは、これが商売というものの一つのあり方だと思います。商売というのは、単に物を売った買ったというだけのもではない。お互い人間同士が、誠心誠意、自分の仕事に打ち込んでいく熱意によって、心がふれあい、心がとけあって、そういうところから、本当の商売ができていくのではないかと結ばれています。