日本の学校教育等では「知識教育」はしてくれます。記憶力のよさも試してくれます。あるいは細かい問題に引っ掛からないように、警戒心強く、猜疑心強くなって、引っ掛けに遭わないような、そうした頭もつくってくれます。そして、そういう秀才たちは、数多く、毎年毎年、生産されています。
ただ、そういう秀才たちを数多く見てきても、やはり、「何か欠けているものがある」としか言いようがないところがあります。
ですから、そうした知識や技術を磨いて他人より差をつけようとするのも、いち早く獲物にありつきたいという気持ちがやはりあるのではないかと思えるところがあるし、そうした引っ掛け問題に強いのも、高得点を取って秀才になる一つのテクニックでしょう。
しかし、人生の出会うすべてのことをいちいち疑って、他人を疑い、罠にかからないようにだけを考えて生きていく人間、あるいは表向きはどのように見えているか気にしながら裏でいろいろと動く人間、サイドを動くといいますが、裏道を探して上っていこうとしたり、コネで上がっていこうとしたり、何か短縮してうまい成功の道がないかをいつも考えているような人間は、この世的には賢いのかもしれないけれど、もっと大きな目で見れば、やはり「小賢しい」と言わざるをえないところはあると思います。
だから、自分のためにいち早く成功する方法を見つけ出して、短距離でそれを手に入れようとする人はいっぱいしますし、そういう教育をしています。現実にしていますが、そういく教育から抜け出して、「徳の完成」を目指すような人間になるのは、そう簡単なことではないでしょう。ここを、教師もおそらく教えることはできません。
さらに、現代教育のなかではそうした「修養」とか「徳」とか、そういうものを教えられる人が少なくなっています。昔の学校では、まだそういうことを教える人はいたと思いますが、現代では、そういうことを教える人は少なくなりました。ちょっと残念です。