「論語読みの論語知らず」という諺があります。一般的には、「本に書いてある理論・理屈を知っているだけで、実際の社会生活に活かしていないこと」を意味しますが、「武士道」という書物に面白く表現されていました。

 新渡戸稲造氏の「武士道(講談社)須知徳平氏(訳)」の第2章「武士道の淵源」からの引用です。長くなりますがお許しください。

「孔子孟子の書物は、(学問を志す)青少年の第一の教科書であり、また、大人たちが議論し合う場合の最高の権威となるものであった。しかしながら、この二聖人が著わした古典を読み、その言葉を知っているだけの者は、世間から高い尊敬は払われず、『論語読みの論語知らず』ということわざがあるくらいで、そのような者はかえってあざけられた。典型的な一人の武士(西郷南洲)は『文学の物知りは、書物の虫である』と言い、またある人(江戸時代の学者三浦梅園)は、『学問は臭(くさ)い菜(な)のようなものである。よくよくその臭みを洗い落とさなければ食べることはできない。少し書物を読めば少し臭くなり、よけい読めばよけい臭くなる。困ったものである』と言った。その意味するところは、知識がもし、それを学ぶ者の心に同化せず、その者の品性に表れることがないならば、本当の知識とはいえない、ということである。たんに知識だけの人間は、それ専門の機械と同じことであると思われた。知力は道徳的な感情の下位におかれた。人間も宇宙も、霊的であり道徳的であると考えられた。『宇宙の進行に道徳性を有しない』と言った、(イギリスの文学者)ハクスレーの断定を、武士道は容認することはできなかったのである」

「武士道は、そのような種類のたんなる知識を軽んじた。知識は終極の目的ではなく、知恵を獲得するための手段として追及すべきであるとした。したがって、その域に到達できない者は、他人の求めに応じて、詩歌や格言を吐き出すだけの便利な機械にすぎないとされた。それ故に、知識と、人生における知識の実践は同一視された。このようなソクラテス的な教義の最大の説明者は、(東洋においては)倦(う)むことなく知行合一を唱えた中国の哲学者、王陽明である」

「人格高潔な武士の中で、王陽明の教えから深い感化をうけた者は少なくないからである。西洋の読者は、王陽明の著書の中に、『新約聖書』とよく似ている言葉の数々を、容易に見出すことであろう。それぞれに固有な用語の相違にもかかわらず、『まず神の国と神の義を求めよ。そうすればすべてこれらのものは、汝らに加えられるであろう』という言葉は、王陽明の書の中に終始見出される思想である」

 全く同感です。知識と行いは一体である「知行合一」の精神こそ、武士道を貫く精神の一つであると再認識しました。「論語読みの論語知らず」になっては、書物を読む価値が半減し、時間の無駄とも言えます。但し、「武士道」は読む価値のある書物だと思います。