スティーブン・R・ゴヴィー著「7つの習慣」を読んでいたら、「愛は動詞である」という箇所に目が止まりました。
長くなりますが、引用させていただきます。
あるセミナーで主体性について講義をしていた時、ある男性が前に出てきてこう言い出した。
「先生のおっしゃっていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりません。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。私は妻を愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるので、とても不安なんです。どうしたらいいのでしょうか」と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になります」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕をしなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表わしなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしては、いかがですか」
世界中すべての偉大な文学において、「愛」は動詞として登場する。反応的な人は、愛を単なる気持ちとして捉えがちである。なぜなら、反応的な人は感情や気持ちに支配されているからである。往々にして映画やテレビの脚本は、人に責任はなく、その時折の感情で動くしかないと、私たちに教えている。しかし、映画の脚本と現実とは違う。もし行動が感情に支配されているとするならば、それは私たちが自らの責任を放棄し、そうさせたからにほかならない。
主体的な人にとって、愛は動詞である。愛は具体的な行動である。母親が新しく子供を世に送り出すのと同じように犠牲を払うこと、自分自身を捧げることである。愛を勉強したければ、他人のため(特にそれに報いてくれない相手のために)犠牲を払う人たちを見るとよい。子供を持つ親であれば、犠牲を払って育てた子供に対してどれだけ愛を感じるかがよく分かるだろう。愛は行動によって具体化される価値観である。主体的な人は感情を価値観に服従させる人である。愛するという気持ちを失っているとすれば、それを取り返すことができるのだ。
愛は動詞であり、愛は具体的な行動であると表現しています。愛は行動し、犠牲を払い、自分自身を捧げた時に、本当の愛が膨らみます。私は愛のことを語れる人間ではありませんが、何となく分かるような気がしました。「愛は動詞である」。実にいい言葉ですね。