すべての人が平均的な中流の生活をしていけることが、はたして、社会的正義であり、善なのか。それとも、そのなかに富裕な者が傑出してくることが善なのか。あるいは、すべての人が等しく貧しいのが善なのか。この善悪の問題は、歴史的にも非常に難しい内容を秘めています。
貧しい人々で社会の大部分が占められているような時代に、もし、その貧しい人々の限られた食料や金銭を搾取する、一握りの人たちがいたならば、それが領主であれ、代官であれ、何であれ、人々の「恨み嘆き」の的になったことでしょう。そして、彼らに恨みを向け、攻撃することが、正義とされることも多かったでしょう。
そういう時代には、貧しさの公平分配のみがあり、富裕な階級にある者は貧しい人々の恨みのなかを生きていたわけです。
ところが、近代社会において、事情はずいぶん変わってきました。「貧しさの公平分配ではなく、豊かさの公平分配を目指す」という社会が出現してきました。では、いったい、なぜ、豊かさの公平分配ができるようになったのでしょうか。
それは、「一握りの優れた起業家たちが出て、大きな事業を起こし、その事業によって、裕福になる人をたくさんつくり出した」ということに原因があるように思います。
日本においても、明治以降、素晴らしい起業家が数多く出ました。その結果、社会が繁栄しました。それはアメリカにおいても同様です。「これらの起業家の下(もと)に憩い、その恩恵を受ける人が数多く出てきた」ということではないでしょうか。
ここ百年余りの人類の歴史で特に目立つのは、優れた起業家あるいは経営者と言われる人たちの出現であります。渋沢栄一氏、松下幸之助氏、本田壮一郎氏、ソニーの盛田昭夫氏、井深大氏、京セラの稲盛和夫氏らがいます。他にも優秀な経営者が日本の繁栄発展と世界に貢献してきました。
それらには、「通常、批判の矛先を向けられがちな『金儲け』と、『優れた経営』とには、自ずから異なるものがある」ということです。
もし、「金儲け」というものが、個人が私腹を肥やすためだけのものであり、他の人が誰も幸福にならないのであるならば、それは、確かに、人々の恨みを買うに十分かもしれません。
しかし、ひとたび、優れた起業家や経営者が出て、数千、数万、数十万の人々を養えるような大会社をつくっていったとしたら、どうでしょうか。
一人の人間が、多くの人々の生活や幸福を保証できるようになったとするならば、そして、自分の会社のみならず、社会全体へ富を配分できるようになって、国家の力をも押し上げたとするならば、どうでしょうか。さらには、その国家の力が、国家のなかにとどまることなく、全世界に広がっていき、他の貧しい国の人々をも救える力を有するに至ったとするならば、さあ、その力を、いったい何と評価しましょう。
その力の源泉となっている富は、明らかに、悪とされる「金儲け」とは違ったものになっているはずです。それは、善悪のなかの善、それも圧倒的なる善に転化していると思います。
すなわち、「優れた経営などは、多くの人々を養い、幸福にしていくたの経済原理、および、その行使は、善である」ということだと思います。