幕末の志士の中で、私は西郷隆盛と坂本龍馬が好きです。なぜならば、徳ある人物だと思うからです。私に人徳の話を語れるほどではありませんが、お二人の話を紹介します。

 西郷隆盛は、幕府を滅ぼして明治政府を立て、陸軍大将になった大立者ですが、西郷は、お金にも地位にもこだわらないでいたところに、人は徳を感じると思います。

 西郷に面白い話が残っています。下女が夕飯を作ってくれたのですが、味噌汁の中に味噌を入れるの忘れました。西郷は、それを「うまい」と言って、お代わりしたそうです。これも、西郷の魅力の一つでしょう。

 また、坂本龍馬は、薩長同盟の陰の主役であり、この薩長同盟が成らなければ、明治の時代は絶対に来ておらず、今のわれわれが平和の時代を享受していることも、おそらくないであろうと思います。坂本龍馬が奔走して薩長を同盟させたことが、実は、近代日本ができている理由の一つでもあります、この龍馬は大政奉還まで経験していますが、そのとき龍馬が書いた「新政府の役職案」に龍馬自身の名前が載っていないので、ほかの人たちから、「なぜ、あなたの名前がないのだ」と問われ、「私は、仕事が終わったら、船に乗って海外にでも出かけ、貿易でもやりたい」というようなことを言ったそうです。

 こういう、役得のようなものを得ようとしないところが、後世、龍馬が人々から愛されている理由の一つではないかと思います。

「普通であれば、人は、このようなものを求める」というときに、そうではない姿勢を示してくる人格、そういう矛盾を統合した人格のなかに、どうやら徳が生まれてくるらしいことが分かります。西郷隆盛や坂本龍馬は、それを教えてくれます。

 権力を持つ。地位を持つ。お金を持つ。人を活かすも殺すも自由にできる立場を持つ。こういうとき、その人が、「どのように自分を制御し、行動するか」というところに、徳が発生するのではないでしょうか。

「指導者として力がある」という点では同じであっても、「自分を制御していく力があるかどうか」というところが問われるのだと思います。

 実に難しいことではありますが、「人間の本能あるいは動物性に基づいたら、このようになるだろう」と思われることとは違うことを、平気でやれて、それにこだわらずに生きられる人、あるいは、利害にかかわらず、公平無私を貫けるような人、そういう人のところに徳が発生してきます。

 そして、自分の天命を感じたり、「自分の本当の活動源、行動力の源泉は、ただ精進にのみある」ということを信じたりしている人のなかに、徳は生まれてくると思います。

 単なる、この世的な看板や地位、お金などで徳が生じると思ったら、間違いです。やはり、裸一貫、精進の力で、自分自身をつくっていかなくてはなりません。そういう精進の力を持って、天命を信じつつ努力していき、道を拓いていく人に、多くの人たちがついてくるのだと思います。