人間が大成するための条件として、昔からよく挙げられているものに、貧乏、失業、左遷、失恋、離婚、病気などがあります。受験の挫折、浪人、留年、人間関係の失敗、事業の失敗などもそうでしょう。
そういうことを経験すると、しだいにネクラになっていく面もありますが、それを通り抜けた人には、いぶし銀のような、独特の光が出てきます。
そのような人の場合、他の人の感情のひだが手触りで分かります。そのため、相手に対する見方や接し方そのものが、その人への許しとなることがあります。
触れると痛い傷口が、誰の心にもあるものです。しかし、一度も失敗したことのない人は、他の人の心の傷口を見つけると、そこに錐(きり)を差し込むようなことを平気でします。その人を言葉や行為で傷つけるのです。
失敗し、苦しみのなかに置かれたことのある人は、傷口に錐を差し込まれたときの痛さがよく分かるのですが、失敗の経験がない人は、他人の失敗や欠点を見いだすと、そこを錐で突いてしまうのです。なかには、相手に徹底的なダメージを与えるところまでやりたくなる人もいます。
自分自身が一つの葛藤のなかにあって、まだ苦しみきっていないときには、他の人の欠点などを責めると、すっきりして、「水面から少し首を出し、息ができた」というような気持ちになることがあります。
これをやらないと気が済まない人もたくさんいると思いますが、これは最低のレベルの喜びです。人を批判したり、こき下ろしたりして味わえる喜びは、喜びのレベルとして最低です。
「他の人の欠点を指摘すると、自分の苦しみがすっきりする」というのは、まだ生半可な苦しみ方です。真の苦しみのなかにあって、自分というものの真実を見つめていくと、他の人の欠点を指摘して気分がすっきりとしているくらいでは済まなくなります。もっと磨かれます。そうなると、優しさが出てきます。
要するに、人を責める言葉が出るときには、自分がまだ充分に練れておらず、ほんとうの悲しみや苦しみを知っていないということなのです。
人生の底を通過した人は、優しくなり、他の人の傷口に錐を差し込むようなことはできなくなります。自分の傷口のなかをえぐられた経験のある人は、他の人の傷口に錐を差し込むことができないのです。
これも許しの一つです。許しというのは、欠点に対するもののことだけではないのです。
悲しみや苦しみを通過すると、許しの幅が広がってきます。これも悲しみや苦しみの効用と言えると思います。