半歩先ぐらい読める人の場合には、周りはみな理解してくれます。

「あの人は、ちょっと優れた偉い人だな」ということを認めてくれます。

 自分より少しだけ先を行っている人の場合には、よく分かってもらえるので、そんなに外れがないんですね。

 周りの人が見て、「ああ、この人は半歩先を進んでいる」という感じだと、よく理解できて、多くの人に「優れている」と認められるのですが、半歩ではなく、百歩も二百歩も千歩も先に進むと、「その人が、どのぐらい先のところを行っているのか」が、もう全然分からなくなります。

 先へ進めば進むほど、孤独になります。その孤独に耐えて自分の信念を貫き、目標に向けて努力をし続けられるかどうか。これが大事なところでしょう。

 だから、信念の強さといっても、最終的には、「人生の目的を何と捉えているか」というところにくると思います。人生の目的のところがはっきりしなければ、信念が強くなるということはありません。

 今述べた「何歩先を行っているか」というのは、「先見性」の問題だろうと思いますが、偉人には、みな信念があって、また、たいていの場合、先見性があると考えます。偉人には、信念と先見性があります。

 偉人とは、現在ただいまの多数意見とは違った考えのなかから、未来の生き筋を見つけ、ただただ、それを追い求めていく人たちのことです。そのため、大多数の人たちは理解できないのだと思います。

「誰もが『素晴らしいことだ』」と分かっていることをやり、成功していく」というのは、半歩先を進んでいる人であって、偉人ではありません。これは、偉人ではなく「優れている人」なんです。優れている人は、出世が早くなったり、給料が上がったりしますが、それだけのことです。

 常識にとらわれないで、人が考えないことを考えてやっていくような人には、強い信念と目的意識、先見性が必要であり、その間、「孤独に耐えて努力をし続ける」という忍耐力が要ります。

 発想のスケールが桁外れなものになってくると、迫害をされたり、あるいは、嵐のような非難や批判が降りかかってきたりすることもあります。

 そして、その反作用の大きさを見れば、その人の考えていることが、どれほど世間の常識とずれているかが分かります。

 やはり、偉人とは、孤独に耐えて努力をし続ける「忍耐力」を持っている人だと考えます。