私の顔は、普通の人より大きいです。子供の頃、ソロバン塾の先生から「大きい顔をしているなぁ」と何度も言われました。また、近所のお兄ちゃんからも良く言われました。子供ながら、いつも傷ついていました。それと足が短いことも自分なりに気にしていました。
こんな私でも、中学生や高校生の時は、非常にモテました。いじめっ子をやつける正義感の強いところがあり、見てくれは悪いのに、なぜか女性からモテました。いつしか、自分の肉体的な欠陥など忘れてしまい、現在に至っています。
かつての私のように、肉体的な欠陥を持っている人もいるでしょう。外見で明らかに分かる肉体的欠陥のある人もいれば、人には分からない欠陥に悩んでいる人もいるでしょう。
そうした人は、それが努力によってカバーできるものであれば、そうしていくことが大切ですが、努力してもどうにもならないものである場合には、あきらめて、ほかの部分で自分を伸ばす工夫をしていく以外にありません。
よくある悩みに、遺伝的な形質による悩みがあります。例えば、生まれつき足が短いことは、悩んでも解決はつきません。カルシウムをとるなどの方法もありますが、抜本的な解決にはならないでしょう。
スポーツをすれば足が長くなるかと言えば、意に反して、胴ばかり長くなることもあります。バスケットボールやバレーボールをして、確かに背は高くなっても、胴ばかりが伸び、肝心の足のほうはあまり伸びないこともよくあります。
このような肉体的問題は、いくら悩んでも解決はつきません。「自分は足が短いので、結婚できないのではないか。社会に出ても笑われるのではないか」などと考えはじめると、きりがありません。したがって、そうした事は忘れ、もっと他の面で自分の能力を活かしていくことです。
他人のせいでも自分のせいでもない問題については、あきらめることも幸福への道の一つです。毎日、足が短いことを悩んでいても、それを解決できる人はいません。考えるだけ損です。考えるだけ損であるならば、考えないことです。
あるいは、事故によって、体の一部が欠けてしまった人もいるかもしれません。しかし、それを悩んでばかりいても、どうにもならないのですから、忘れてしまうことです。
デール・カーネギーは、幼い頃、窓から飛び降りた際に指輪を釘に引っ掛けてしまい、手の指が一本、取れてしまったそうです。しかし、彼は著書の中で、「そのことを思い出すのは、月に一回あるかないか」と書いています。彼は一生懸命に生きること、積極的に生きることに熱心だったので、自分の指が欠けていることを思い出す暇がなかったのでしょう。
結局、一つのことにこだわる性格は、より大きな価値を求めて積極的に生きていないことを証明していることになります。もっと大きな理想を掲げて、一生懸命に生きていくことが大切だと思います。かつての自分もそうでしたが、忘れる努力をし、良い面を伸ばしていこうと心を切り替えました。