まず、旧約聖書に出てくるヨブという人の話をしましょう。

 ヨブという義人、善人は、非常に信仰深く、どのようなことがあっても、その信仰は変わりませんでした。

 しかし、あるときを境にして、そのヨブを次から次へと不幸が見舞います。家畜は奪われ、使用人は殺され、息子や娘も事故で死んでしまいました。そのうえ、ヨブのからだには腫(は)れものができ、見るも哀れな姿になってしまいました。こうして、ヨブは何もかも失っていったのです。

 そのとき、ヨブは天に向かって叫びました。

「神よ、私は信仰正しく生きてきました。その私に、なぜこうした不幸が及ぶのでしょうか。これは何かの間違いではないのでしょうか。信仰深く生きている人には、それなりの環境が与えられてしかるべきです。それだけの成功や繁栄、栄光があってしかるべきです。それなのに、私のまわりには、なぜこのような不幸が起きるのでしょうか。一家は無残なありさまです。家畜たちも数多く失われました。また、私自身も、このような醜い姿になってしまいました。なぜ、こんなことになるのでしょうか」

 すると、神は次のように答えたのです。

「ヨブよ。おまえにいったい何が分かるというのか。おまえは神の心が分かるのか。おまえは、この宇宙を創ったものの、ほんとうの思いが分かるのか。なぜ、私がおまえにこのような試練を与えているか、その意味が分かっているのか。おまえは環境を呪っているが、そこにこそ、おまえの誤りがあるのだ」

 結局、聖書は何を教えたかったのかといえば、「環境を呪うことによっては幸福になれない」「環境がよければ信仰するが、悪ければ信仰しないということでは、ほんとうの信仰ではない」ということです。

 他の人からの批判や悪口もあるでしょう。言ってみれば、これは銃弾かもしれません。しかし、そうしたもので撃たれても動じない確固とした信念、信仰を持っていることが必要なのです。

 ところが、ヨブは、すべてがうまくいっているときには、ひたすら神を信じていましたが、さまざまな不幸が起きると、急に神を信じなくなりました。

 こうした例は、この世にはいくらでもあります。例えば、優遇してもらっているときには信頼していた人を、自分が不遇を託(かこ)ちはじめると、急に信頼しなくなることがよくあります。

 会社でもそうです。上司が自分を引き立ててくれているときには、一生懸命、その上司に仕えても、引き立ててくれなくなると、とたんに悪口を言う。これが平凡な人の姿です。

 自分がよい役割を与えられたときには一生懸命やるけれども、自分の立場が下げられると、とたんに不平不満を言う人がいます。これは愚の骨頂です。

 こうした人はヨブと同じ立場に立たされているのです。自分が順風のとき、順調なときに、信仰正しく生きることは簡単です。しかし、自分が非常に困難な時期にこそ、信仰が試されるのです。

 人間の魂を鍛えるために、仏神は人間に試練を与えることがあります。魂を鍛えるために大事なのは、得意のときと失意のときです。この二つのときに、その人のほんとうの姿、本性が現れてくるものなのです。

 得意のときに得意とならず、失意のときに失意の底にうち沈まず、常にたんたんと努力する姿勢を、仏神は人間に要求しています。

 結局、人生の不安というものは、「他人との関係のなかで、自分が相対的に下がるのではないか」と思うことに起因します。自分の長所だと思っていたものが、ほんとうにそうであったのか疑わしくなるわけです。

 自分の美貌だけが幸福の根源だった女性には、その美貌がかげってきたとき、いったい何が残るでしょうか。あるいは、若さだけが取り柄だった人は、その若さがなくなったとき、どうするのでしょうか。

 言わんとしていることは同じです。「外なるものが自分を害そうとしたり、自分の値打ちを下げようとしたりしたとき、それに耐えられなくなり、苦しくて転げまわっている」というのが、不安の真実の姿です。そのときに信仰や信念が試されていると思わなければいけません。

 人生の不安の大部分は、外部の原因を見いだそうとする心によるものであることを知ってください。不安が生じるのは、それだけ自分の内部が固まっていない、自分の内部に対して責任がとれていないということです。

 人生の苦悩や不安の原因は、「自分の幸せを左右するものは外部にある」という考え方です。これが人間の心をぶらつかせているのです。結局、人生の不安というものは、価値観のところに原因の大部分があるように思います。