アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイの小説に「日はまた昇る」があります。小説のお話ではなく、私は「日はまた昇る」という言葉が好きです。言い古された言葉かもしれませんが、この言葉は人生の真実であり、日は確かにまた昇ります。

 夕方、水平線に消え去った太陽は、十余時間の闇の期間を経て、確実にまた昇ってきます。太陽は人びとに、没しても必ずまた昇ることを約束してくれます。

 地上の全人類のうちで、「日はもう昇らない」と思っている人が一人でもいるでしょうか。すべての人が、「日はまた昇る」ということを信じて疑わないはずです。なぜでしょうか。

 それは、「きょうも、きのうも、おとといも、一年前も、日は昇った。また、十年前も、あるいは自分たちの先祖の時代にも、日は昇った。したがって、あしたも、あさっても昇るだろう」と思っているからです。

 人生においても同じであり、どのような苦難や困難のときでも、日はまた昇ります。

 苦難や困難にある人に、ぜひ実践していただきたいことがあります。それは、ご自分の現在のあり方を、第三者の目で冷静に見てみるということです。そして、「自分と同じような苦難や困難に陥った人が、かつていなかったかどうか」と考えてみる事です。

 人間は「自分の悩みはとてつもなく大きい。これはどうしようもない問題である」と思いがちですが、ほんとうにそれほど特殊な問題なのかといえば、たいていはそうではないのです。それは過去にも現在にもある話であり、似たような悩みや苦しみを持った人は、ほかにもいる場合がほとんどです。

 例えば、「自分は憐れである。かわいそうである」という気持ちで、自分の内心をくすぐっている人が数多くいます。

「こんな病気をしたから、自分は不幸なのだ」「試験の点数が悪かったから、自分は不幸になった」「あのとき、ああした環境だったために、こうなった」「あれさえなければ」「こうであれば」ということを、あれこれ言う人はいくらでもいます。

 これを自己憐憫(れんびん)といいます。「自分がかわいそうだ」という感情です。これは、他人から愛を与えられないので、一生懸命、自分で自分に愛を与えている状態です。

 こうして、自分で自分に肥料を与えているつもりでいるのですが、残念ながら、この肥料には毒素が入っていて、与えつづけると、やがて草花は枯れてしまいます。自己憐憫は、その人の心のまっすぐな成長を妨げるという意味において、毒素となっています。

「自分がかわいそうだ」と思って自分を愛している人は、いつまでたっても、豊かで素晴らしくなれません。

 何かきっかけを見いだして、自分をかわいそうな立場に追いやり、悲劇の主人公にまつり上げて、その傷口をなめている。こうした傾向のある人は数多くいますが、そうした人たちは、「自己憐憫では決して幸せにはなれない」ということに気がつく必要があるでしょう。

 結局、日を再び昇らせるための方法は、夜というものをあまりつかみすぎないことです。「夜は去っていくものだ」ということを知らなくてはなりません。

 すなわち、自分を憐れむ気持ちと早く決別しなければいけません。「この世から捨てられたような自分」という考えを、早く捨てなければいけません。

「自分も素晴らしい仏の子なのだ」という自覚を持ち、その自覚に支えられて生きていくこと、とにかく前に進んでいくことが大切だと思います。

 ある人があなたのことを悪く言っても、別の人はよく言ってくれることもあります。どちらが真実かは分からなくても、ただ前に進んでいくことです。

 したがって、一時的な流れのなかで、他の人の言葉に惑わされないことです。これは決してエゴイストの生き方を勧めているわけではありません。人間には必ずしも相手のことは分からないということです。

 自己憐憫に浸っている人、悲劇の主人公になりやすい人には、悲劇に近い環境が多く出ることも事実です。また、自己卑下をする人には、悪口が与えられるものです。

 したがって、自分を弱く見せないことが大事です。そして、決して自己憐憫はせず、たんたんとご自分の王道を歩んでいくことです。ここに、日はまた昇っていくための秘訣があります。必ず、日はまた昇ります。