今回は、子供に対する親の愛について考えてみましょう。
親はみな、「自分の子供ぐらいは、かわいがっているし、愛していますよ」と言います。実際に、本心から子供を愛していて、子供のために生きているつもりですし、子供が憎い親はいません。
ところが、子供が自分の思うようにならず、反抗されることも数多くあります。「私は、子供をこんなに愛したのに、こんなにかわいがったのに、どうして、自分の言うことを聞かずに反発するのだろう。自分のことをこれほど悪しざまに言うのだろう。どうしてなのか、さっぱり分からない」と思って、苦しんでいる親は少なくないでしょう。
愛している子供が非行に走って不良になったり、反抗して家を出ていったりすることもありますし、子供の問題で夫婦の仲まで悪くなってしまうこともあります。
「私は子供をこんなに愛したのに、なぜ、このような目に遭わなければいけないの?」と思うわけですが、実は、その考え方のなかに間違いが含まれていることもあります。
その一つは、子供に成果を求めて、「目標を達成したら、愛してあげる」というような愛の与え方をすることです。こういう親はたくさんいます。
母親が子供に一定の成果を求め、「子供が目標を達成したら愛するが、達成しなかったら、愛するかわりに叱ったり怒ったりする」というケースはよく見られます。もちろん、一定の範囲では、そういうこともよいと思います。
子供が学校で良い成績を取ったり、スポーツで活躍したり、絵画や書道で作品が評価されたりすれば、親としても嬉しいので、子供をほめるのは当然でしょう。
しかし、これが、「成果を条件にする」というように、愛することに条件をつけ始めると、問題が起きてきます。子供としては、達成できる場合はよいけれど、達成できない場合には、親に反旗を翻して自分を守ろうとするようになります。
「成果をあげて一定の条件を満たさなければ愛さないぞ」ということを親から言われると、子供は「親から捨てられるかもしれない」という恐怖心を抱きます。愛の反対である恐怖を感じます。
子供は何とか成果をあげようとして頑張るのですが、親の要求レベルが高いために、そこまで届かないこともあります。そういうときに、子供は、自分を守ろうとして、反発したり、内なる世界にこもったり、逃避したりし始めます。
このように、子供の非行や反抗、逃避などは、親の「条件つきの愛」に問題があります。
また、例えば、親子関係がうまくいっている家庭では、「お母さんは、あなたを産み落としただけで何もしていない。あなたが自分で勉強したり努力したりして偉くなったのだ」という言い方をすることが多いので、子供は親に反発しません。
しかし、うまくいっていない家庭では、その逆の場合が多いです。
子供のほうは、親が「自分たちのことを所有物だと思っていると」と感じると、反発してきます。「あなたを産むときは、痛くて大変だった」「あのときは、お父さんがリストラされて家でごろごろしていて、わが家の経済状態は最悪だった」「私は体調が悪く、出産して骨までガタガタになってしまい、体が元に戻らなくなってしまった」
そういった話を恩着せがましく十年以上も言い続けられたら、それを聞かされるほうは大変です。壊れたテープレコーダーのように、親が同じことを繰り返すと、子供のほうは「この話は、これで何回目かな」と思い、だんだん嫌になってきます。そして、小学校六年生ぐらいから中学生あたりで、子供は親から逃げ始めます。
「子供がなぜ逃げるのか」を、親は感じ取らなくてはいけません。同じことをいつも言っているから逃げます。「いかに大変だったか」と子供に恩を着せるような愛情表現です。
これでは、子育てが母親の徳にはなりません。
「与えきり」だからこそ「徳」が生まれてきます。
「自分は縁の下の力持ちでよいのだ。子供を育てること自体が、自分の生きがいであり、それだけで十分ごほうびになった。あとは子供が幸福な人生を生きればよいのだ」
親がそのように思っていれば、子供は逃げていきません。
しかし、「自分が苦しんだ分、大変だった分は、あとできちんと取り返してやろう」と親が思っていたら、子供は逃げたくなります。
もし、子供が逃げ始めたら、「自分にも、そういう口癖があるのではないか」と考えて、反省したほうが良いと思います。