昔、流行った「松の木小唄」の一節に「恋にもいろいろありまして、ヒゴイにマゴイは 池の鯉、今夜来てねと甘えても、金もって来いでは恋じゃない」。面白い文句ですが、恋にもいろいろとありますが、愛にもいろいろとあります。良い意味では、与える愛、生かす愛、許す愛がありますが、嫉妬心が行き過ぎた場合は、「うばう愛」や「しばる愛」になってくる場合がありますので、気をつけてください。

 結婚の経験がある方なら、特に結婚当初に、妻が浮気をするのではないか。あるいは、夫が浮気するのではないかと思ったことは、一度や二度はあると思います。私も例外ではありません。あと二年で金婚式を迎えますが、結婚当初は、妻が浮気をするのではないかと、嫉妬心を持ったこともあります。反対に、妻のほうにも一度や二度はあったのではないでしょうか。もっとも「女房の妬くほど亭主もてもせず」という諺もありますが、夫婦間のごく普通の感情ではないでしょうか。

 男女の愛が生まれるときは、二人の間に他の人が入れないように、一定の嫉妬心も生まれ、排他的になる傾向もあります。また、夫婦関係では「相手を失いたくない」という恐怖心による嫉妬心を、愛だと勘違いしている人も少なくありません。

 ただ、この嫉妬心が過ぎて、極端なところまで行った場合には、もはや愛ではないと思います。それは、愛ではなく、「相手を拘束すること」であり、「自由を奪うこと」です。相手はその重荷に苦しんでいます。「妻にいつも監視されている」「夫にいつも監視されている」というのは、かなり辛いものがあります。

 愛というものは、本当は、お互いを幸福にするものであるべきなのに、相手の自由を奪ったり、相手を苦しめたり、拘束したりするものになりやすいです。

「これこそが愛だ」と思って、自分の嫉妬心を肯定したり正当化したりしやすいので、「嫉妬心と愛とは違うのだ」と思ってください。

 本能的には、どうしても嫉妬心は出てくるものですが、そのときに、「これは、本当の愛ではないのだ」と思うことが大事です。そして、相手の人格を尊重し、一定の範囲で相手の自由を認めることも必要でしょう。「相手を信じる気持ち」を持ちましょう。

 相手を縛って、常に自分の圏内に置いておくことは、必ずしも愛ではありません。もし、それが嫉妬になってしまっているときには、一度、反省をして、その思いを解体しなければなりません。

 嫉妬心の原因の殆どは恐怖心です。

 相手に逃げられる恐怖心、相手を失うことへの恐怖心、あるいは自己保存欲、自己中心主義から生まれています。

 その根底には、「相手を操縦したい」「相手を支配したい」という気持ちがあります。それも、ある程度の範囲なら許される面もありますが、相手に苦しみを与えたり、重荷を与えたり、息苦しさを与えたりするようになってくると、愛は死滅していきます。

 愛が執着にならないためには、義務感や押しつけではなく、やはり、自然に湧いてくる愛情をお互いに大切にしましょう。