執着という言葉があります。一般的には良い意味で使う言葉ではありません。悪い意味で使うほうが多いと思います。執着とは、良くない事を「いつもいつも自分が考えている事」「その心が一点に止まっている」状態と言えます。

 例えば、仕事で失敗した事や受験で失敗した事など、昨日のようにいつも思い出すことがあります。あるいは、結婚のときの失敗が、今現在の事のように思うことがあります。また、過去の事だけではありません。今している仕事でも、どうしてもどうしても心がそこに止まってしまうことがあります。これが執着です。

 良い意味では、何かを成さんとして努力している時でしょう。その際にも、いつもその事を考えていると思いますが、これは執着とは言いません。むしろ、歓迎すべき考え方ですね。良き心の持ち方で、執着ではなく「理想」でしょう。

 良い意味での執着は大歓迎ですが、悪い意味の執着は、決して、その人を幸せにしないと思います。例えば、一日の大部分、悲しみや苦しみの方向に、自分自身を害してしまうようなことです。また、自分を悲しませるものでなくとも、他の人びとを傷つけたり悲しませたりするような暗い考え方を持つこともあります。

 本来、人間の心は、ダイヤモンドのように光輝いています。無垢な心を持って生まれてきます。小さな子供のように、純真で、無垢で、光り輝いています。これが心の本質です。

 ところが、大きくなるにつれて、いろいろな挫折、失敗や悲しみを通じて、その金色の体に、次から次へとゴミやほこりがたまってきます。そうしたゴミやほこりに覆われた姿が本来の人間の姿ではないことを知ることが大切です。執着とは、ゴミやほこりのようなものです。

 人間の本来の姿は、光り輝いた姿です。天真爛漫に、すべての人が愛し合い、喜び合える、そのような世界です。子供たちのような世界です。

 ところが大きくなってくると、自分の挫折や悲しみを通じて、いつの間にか他の人に対する見方が変わってきます。人を信じられなくなってきます。世の中は自分を害するように見えてきます。失敗は数かぎりなく、悲しみはその底を知らないような現実の中にどっぷりとつかってしまいます。まさか、そんな事はないと思われるかも知れませんが、実は自分自身で、そうしたゴミやほこりを吸い寄せ、集めています。案外、こういう現実があります。いつの間にか、自分の心を害する思いを持ち、害する行為を招き寄せている人がいます。

 失敗を愛している人、不幸を愛している人、病を愛している人などです。心のコントロールを知らず、気づかぬままに暗い方向に心を止めてしまい、その心に相応するものを引き寄せ、そして体に付着させ、金色の光を消しています。暗い、灰色の光に覆われた姿となっています。

 このような悪しき執着から自由になろうと思うことが、幸福への道です。

 自分が仕事上の失敗をしたからといって、それが自分の値打ちを少しでも下げることになるでしょうか。世の中には、様々な仕事についている人がいて、みんなその中で苦労しながら自分を高めていっているではありませんか。そうであるならば、自分の小さな失敗にいつまでも執われているのは、悲しい心ではないでしょうか。

 自分自身でその心の釘を抜けば済むことです。そうした小さな失敗に執われているのは、他人のせいではありません。自分自身のせいです。過ぎ去ったものをどうすることもできません。その不幸な事実に執われない心を持ちましょう。

 過去と決別していくことです。その不幸な過去を活かすためには、教訓へと変える以外に方法はありません。不幸な過去に決別をし、教訓に切り換え、現在に生きることこそ、大事だと思います。

 私も若い頃は、なかなか、悪い執着を切り離すことができず、悩んだ時期も多くありましたが、潜在意識という考え方を知るようになって、良い想いをいつも持つように努力していきました。そうすると、少しずつですが、良き経営者との出会いがあり、本当の意味で幸せを感じるようになってきました。悪しき執着から自由になりましょう。