あいつだけは許せない。許すことができない。長い人生で、そう思うこともあります。ときには憎しみのあまり、完璧なきまでに叩きのめしたい気持ちに駆られることもあります。
しかし、人を憎み、蹴落とすことでいったい何が生まれるというのか。もともと人間なんて弱いものです。その人間どうしが憎しみ合ったところで、それは、生きている地球のなかでは、ほんの一瞬の小さな出来事にすぎません。許し合ってこそ、新しい希望を見出していけるのではないでしょうか。
菊池寛の「恩讐の彼方に」は、許す勇気を教えてくれます。
自分の罪も許さなければなりませんが、他の人に対しても、「自分は、『一生、あいつを憎みつづけよう』と思っていたけれども、これ以上、憎みつづけても、自分も苦しい。もう、あいつを許そう」と思うことが大事です。
人を憎んでいると、たいてい、体の調子が悪くなります。憎まれている人、憎しみを受けている人も調子が悪いのですが、憎んでいる人も、やはり調子が悪いのです。
原因不明の病気になったりする人は、多くの場合、憎しみの感情を強く持っています。「許せない」という憎しみの感情を持っていると、精神の作用によって、病巣が体のなかにできてくるのです。破壊的な思い、憎しみの思いが物質化して、ガン細胞になったりすることもあります。そのように、思わぬところで病気が出てくるのです。
したがって、自分自身のためにも、人を許さなければいけません。自分自身のことも許さなければいけませんが、他の人のことも許さなければいけません。
自分に対して害をなした人、自分に恥をかかせた人、自分を迫害した人、自分を侮辱した人など、そういう人は、確かに、たくさんいるでしょう。しかし、許さなければいけません。1年、苦しめば、あるいは、3年、5年、苦しめば、もう充分です。
そういう人たちも、現在は変わっているかもしれないし、反省しているかもしれません。「そのときは侮辱したけれども、あとで反省した」ということもあります。
ひどいことをされて、苦しい思いをしたとしても、それをいつまでも恨みつづけるのではなく、自分も不完全だけれど、「相手も不完全な人間なのだ」と思わなければいけません。
自分の罪も許し、相手の罪も許すことが、人間としての尊厳さが認められ、人間のすばらしいところです。その法(のり)を超えるときに、真の幸福があるように思います。自分のためにも、相手のためにも、罪を許す勇気が必要です。