平成21年4月から実施される「裁判員裁判」は、裁判官でない一般の人が裁判をする。裁判は常識で行う。人生経験豊かな方が選ばれて、常識的な結果を出す。裁判官でないとできないわけではない。もちろん、法律知識は必要だが、この点は専門の裁判官が扱う。
戦前の日本では、裁判員制度よりもっと裁判官の力を借りない陪審裁判を行っていた。
アメリカなど外国でもやっていることが、日本人にできないことはない。戦前の日本人にできて、現代の日本人にできないことはない。
ADR(裁判外紛争手続)も、人生経験豊富な方が間に入って、両者の仲裁役、調停役をする。両者が精神的、物質的にも、WinWinの関係にもっていくことがADRの本誌である。もちろん、法律知識も必要であるが、そこは専門職の弁護士さんらがカバーすればよい。
ADRの認証手続が今年4月からスタートするが、ADR法ができた趣旨は上記のような考え方に基づく。法律知識は必要であり、法律判断もするが、常識的に判断して解決策を見出すのがADRで、裁判をせずに紛争を処理していくこと。経験知の基づいた判断や人間の心理的な面が色濃く反映される。
ADRも裁判員裁判も、時代の要請なのか。国民の声なのか。国策の一つとして、また、法律化されて、まもなく始まろうとしている。
これからは、裁判もADRも、常識や人間の幸福論が先にあり、法律知識は補佐的な役目を果たす。法律知識が第一義ではないと思うのだが。これは、私だけのうがった考え方なのでしょうか。